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HLA検査結果(2005年11月) 


2005年11月27日(日)

その日も、普段と変わりの無い一日が始まる。

化学療法が終わってからは、治療がないので、大きな苦痛はない。治療中、尿を貯めたりしていたが、それも無くなり、徐々に点滴の量も減っていった。食欲不振は、まだあるものの、吐き気は無くなった。今回の治療で、実際に吐いたのは、二回。二回とも、朝食後に吐き気が急に来て、吐いたものだった。うがいや歯磨きの後に、吐き気が来た記憶がある。

肺のほうは、もうかなり良いが、まだ、空気があるようで、なかなか管が取れない。この管があると、寝返りができず、寝るとき、窮屈で仕方がない。早くと取れるといいのに、って思ってた。

夕方に、家族がお見舞いに来る。実家から、車で十五分くらいの距離にあるので、毎日、夕方にお見舞いに来てくれる。この日は、母と弟だったかな?僕の体の調子も良く、普通に話して、家に帰っていく。

それから、十分後くらいに、M先生が、またも、急いでやってきたって感じで、病室に飛び込んで来る。HLAの結果がFAXで送られてきたってことだった。

結果は、全員、不一致。

型(6種類ある)が最もあったのは、母の四つ。25%の確率で、一致するはずの兄と弟は、三つしか合わなかった。しかも、皮肉なことに、兄と弟は、完全一致。兄とは、少し顔立ちが似ているし、期待していたが、残念。兄と弟とは、体格が大きく異なるんですよね。それと関係しているのかなって思っちゃった。僕の身長は、176cm。兄と弟は、170cmなんです。まあ、身長が運命の境目とは思いませんが…僕以上に、落ち込んだのは、兄弟のようです。弟は口に出しませんでしたが、兄は、その悔しさを、僕にも告げています。兄は、その後、骨髄バンクに登録。いつか、兄の骨髄が、誰かに提供できるといいなと思っています。あと、母と四つ一致したことは、父と母が同じ血液の型を持っていたことが関係しているのだと思います。あと、いとこの兄弟も、完全一致していました。やはり、兄弟は、一致しやすいと言えるのでしょうね。この結果を受けて、自分だけ、っと落ち込んではいませんでした。まだ、楽観視していた部分もあったのでしょうが、家族にあまり迷惑をかけたくない、と思ってた部分があります。

とりあえず、緊急時に母がドナーとなる可能性があるということとと、僕とHLAが一致する骨髄バンクのドナーが12名いましたので、移植が決まったら、ドナー探しをすると、あと、臍帯血のほうも確認しておくと言う事でした。とにもかくにも、寛解を目指すことが第一目標!この後、転院直後まで、移植の話は立ち消えとなりました。

もし、このブログを見ている方で、HLA検査をした患者や家族の方がいらっしゃるならば、ぜひ、このサイト(http://220.110.133.59/search/WS00000002.cgi)にアクセスして、自分と一致しているドナーの数を確認してみてください。このページは、骨髄移植推進財団のホームページ(http://www.jmdp.or.jp/index.html)の中にあるサービスです。今日、照合してみた所、9名が一致と、3人も減っていて残念でした。年齢のことと、辞退した人がいるのかな?

HLA検査をしたことで、自分の血のルーツを知ることができるのはご存知ですか?僕の型は、一つは日本人に稀な型で、もう一つは、日本人に0.29%の割合であり、中国中原長江周辺に端を発するものものだそうです。こういうのっておもしろいですよね。家族みな、結果を見入ったことを覚えています。

最悪な結果にも、どこか他人のことのように感じ、冷静な自分がいるんです。だが、徐々に、その冷静な自分を見失っていきます。

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輸血&化学療法終了(2005年11月) 


2005年11月2X日(?)←日時不明です

初めての輸血。

入院時より、貧血症状があるも、輸血が必要なほどではなかった。しかし、化学療法により、骨髄抑制が起こり、赤血球の数は、日に日に減少。ついに、輸血が必要なほど、下がってしまった。血小板は、赤血球ほど、減るスピードは緩やかだった。あまり、化学療法(抗がん剤治療)を知らない人のために補足するが、抗がん剤は、白血病細胞だけを攻撃するのではなく、正常な細胞をも攻撃する。正常な細胞(赤血球、白血球、血小板)を作り出す骨髄も壊され、その結果、白血球の減少はもちろんのこと、赤血球と血小板も減少していくのである。これが、骨髄抑制です。

初めての輸血は、赤血球(map)の輸血でした。真っ赤な血色の輸血です。感染予防のため、この輸血液は、放射線をあて、滅菌状態となっており、高額なものです。輸血で、アレルギー症状が現れることも、人によっては、あるようです。僕は、血小板でアレルギー反応が少し出るタイプでした。

輸血して思ったことは、献血してくださった人への感謝の気持ちです。自分は、献血を一度もしたことがなかった。元気なときにしておけば、よかったと思いました。退院するまでに、何人の人の善意の気持ちに助けて頂いたのかわかりませんが、ただ、ただ、感謝です。


化学療法は、一週間で終了。

点滴は、続くわけですが、治療は特になし。白血球数は、数百という、感染症リスクの超高い状態が、二、三週間続きます。手洗い、うがい励行して、ただ、白血球が上がるのを待つのみ。自分は、何もすることはできないので、うがい等は、しっかりと行っていました。

まだ、知識も無かったこともありますが、寛解に持っていくことは、そんなに大変ではないと思っていたため、安易に構えていた自分が、そこにはいた。この頃は、心にゆとりがあり、終始、にこやか。吐き気と食欲不振はあるものの、それらの症状はひどくはない。この病院は、食事に融通も利き、しかも、病院食はおいしかったため、さほど体重も落ちることは無く、日々を落ち着いて過ごせていた。自分の過酷な状況を感じさせない、空間・時間に、身を委ね、好きなように時間を過ごす毎日でした。(夜は、相変わらず、眠れてません)

HLA検査(2005年11月) 


2005年11月21日(月)

今日は、家族(父・母・兄・弟)がHLA検査のため、病院にやってくる。

骨髄移植などの造血幹細胞移植が必要な僕の血液の型(6種)を知り、家族の血液の型も調べることで、僕との一致があるかを確認する。家族以外にも、親戚(いとこ)がやってくれることに(勘違いがないように、言っておきますが、従兄弟でHLAが合うことは、他人と合う確率と変わりません。従兄弟は、それを知った上で善意でやってくれたのです)。HLA検査は、血液を少量採るだけの、簡単な検査で、普段は、病室に多くは、入れないのだが、この日は、四人全員が入り、M先生が血液を採取した。僕って、血液を採られるの平気なんだけど、みんなが見てる前で採るのって新鮮で、ちょっと緊張した。母の血の色がやけに薄いって、みんなで笑った。後々、その原因がわかるのだが、今は、触れないで起きます。

HLA検査については、外部の非営利団体的な研究機関で調べます。保険は利かず、一人約一万円くらいだったと記憶しています。西日本では、京都にしかないのかな、と思われます。検査結果は、一週間くらいで出るようです。

後日、従兄弟が、四人、血液を採りにやってきました。お見舞いも受け、励まされました。叔母(父の妹)の職場の人で、白血病になったが、骨髄移植して治って、元気に仕事復帰していると聞いて、自分もがんばろうと思う。

この病室は、個室で、病室からは、外に出れないし、同じような病気の人と知り合うことも無く、自分が少し孤独であるようかに感じていたが、実際に、白血病の人が元気にしていると聞くのは、うれしかった。

まずは、寛解(白血病細胞が骨髄中に検出されなくなること)まで、持って行かないといけないの。なぜなら、移植の成功率は、寛解状態と非寛解状態では、大きく異なってくるのです。もうすぐ、化学療法も終了。あとは、二、三週間くらいで、正常な白血球が立ち上がってくることを待つのみ。長い道のりとなります。

お守り(2005年11月) 


2005年11月20日(日)

今日は、午前中は、のんびり。午前中、彼女は、母、兄・兄彼女と、ちょっと観光。歴史名所を行ったが、兄の説明は、あんまりわからなかったらしい。これまた緊張したみたいです。

昼に、彼女が来る。神社でお守りを買ってくれた。病気平癒のお守りを初めて貰った(当たり前か)。見た目で、何か効きそうだなって思っちゃった。どこに付けようと悩んだが、携帯の充電器のコードに付ける事にした。ここならば、枕元に常にあることになるし、側に置いておけるのです。

今、携帯の充電器には、三個のお守りがあります。入院中に増えていいったのです。その話は、いつか出てくるでしょう。

彼女と二時間くらい話して、彼女は、帰路に。兄、母が新幹線の駅まで送ってくれました。

きっと、僕が病気にならなければ、彼女が僕の親に会うタイミングは、当分、先だったと思う。そして、兄の彼女も、うちの親に会うのが先になってたかも。僕の病気で、人と人とのつながりが強まって行った。僕が病気になったことは、マイナスの要素だけではないのです。病気になったことで、人との縁を強く感じることが多々ありました。

家族の僕の彼女に対する印象は上々でした。よかったです。まあ、彼女ならば、大丈夫だと思ってましたが。彼女は、家族の自分に対する印象が悪くないか、かなり気にしていたけどね。

彼女と家族の初対面(母、兄・兄彼女が駅に迎えに行く場面)で、おもしろいエピソードがありました。事前に、彼女の写真は見せていたのですが、家族もどんな人だろうと、緊張しながら、改札前で待っていたようです。新幹線が止まり、続々と(そんなに降りた人はいなかったのかも)、人が降りてくる中、彼女らしい人は、なかなか降りてこない。そこに、今時のギャルって女性が改札から出てくる。兄、母は、まさか、あれじゃないような、って身構えたみたいです。もちろん、違ったのです。それで、最後に、出てきたのが彼女で、彼女を見て、一同、ほっとしたとの事。ギャルだったら、本当にどうしようって思ったみたいですよ。笑い話だけど、家族も緊張したんだろうな。悪いことをしました。

さて、彼女と再会で、治療のことを忘れてしまっていましたが、まだ、病気は、消えていません。寛解導入に向けて、治療は続いていきます。

これから、現実が僕を包んで行きます。治療は、そんなに甘いものじゃなかった。

彼女と再会②(2005年11月) 


2005年11月19日(土)

彼女達が病室を出た後、昼食を済ませて、少し、休憩していると、先輩達が病院に到着。四人で来たため、面会は二人までなので、二人ずつ入ってくる。最初、恥ずかしかったから、帽子を被ってたが、結局、見せた記憶がある。先輩達は、とても、心配してくれて、とても感謝しました。仕事のことと、病気のことと、いろいろ話せました。

この先輩方は、退院後の自宅療養中にも来てくれていますし、その中の一人の先輩は、移植直前の一時退院中にも来てくださいました。本当に、優しい先輩に恵まれたなーって思いました。関西から、遠いのに、しかも交通費自腹だし…

先輩方が帰って、少し、休憩。この間、彼女は、家族との昼食に緊張で、ご飯もなかなか喉に通らず、実家でも緊張しまくりだったようです。僕が近くにいれば、フォローもできたでしょうが、全く面目ないです。実家では、僕の小さいころのアルバムを見たりしたようです。

この間、看護師さんに少し、からかわれたような気がする。病人の彼女が来るなんて、からかいどころだもんなー。

夕方、彼女、兄、兄の彼女が来て、彼女と小一時間、二人きりで話しました。内容は、あまり覚えていませんが、会社の先輩が買ってくれたサッカーの本に、僕らが応援している姿が小さく載っていて、それを見た記憶があります。あとは、何を話したんだろう。そこら辺、結構、忘れちゃってます。たぶん、病気のことをあまり、意識せずに、普通に会話してたから、内容を覚えていないんだと思います。そういう空気が作れたのはよかったです。意外と、彼女は、元気そうだったので、安心したのは覚えてます。その笑顔を見て、治療に向けての意欲が沸き起こりました。

その後、彼女は、兄達と夕食を食べてホテルへ。

今日一日、家族以外の面会もあって、うれしかった。化学療法中であることをすっかり忘れていました。この病院に入って、あまり、大きなストレスを感じてはいない。いい雰囲気で、治療に望めている。いいことです。ただ、夜中は、寝つきが悪いし、眠りが浅い。看護師さんが、夜中に巡視に来る度に、よく目が覚める。睡眠薬って手もあるらしいが、今のところ、疲れを持ち越すことも無く、快調なので、断っておいた。その後も、不眠症状は続くことになるのですが…

11月19日終了。

彼女と再会(2005年11月) 


2005年11月19日(土)

いつものように起床。今日も、若干、体調悪め。

今日は、吐き気止めを食前にしてもらった。そのおかげか、少し、気分は良くなって、食欲も出てきた。

彼女は、昼前に来るようだ。

そうそう、その日の朝に、会社の先輩から、「今日、お見舞いに行っていいか」ってメールが来て、急遽、会社の先輩四人も来ることになった。彼女とかぶったりすると、少し、混雑するなーって考える。この病室は、面会が二人までって制限されているもので。ちなみに、一回の面会も二時間までだった気がする。
白血球は、まだ、1500あるので、家族(彼女はOK)以外の面会も特別にOKらしい。

彼女が来ると、今日の日勤の看護師に言うと、興味津々って感じだった。何か照れくさかった。

昼前に、彼女登場。何も変わらない姿を見て、一安心。普通に話した。彼女は、僕の家族にあったりで、緊張を隠せない感じ。手編みの帽子とMDを受け取った。彼女は、手芸が趣味だが、初の帽子作りで、毎日、夜中まで起きて作ってくれたらしい。その気持ちが、すごくうれしかった。

小一時間話して、彼女は病室を出る。兄と兄の彼女と少し話す。兄も帽子を買ってくれた(まあ、お願いしてたんだけど)。兄と、今日のこれからの段取りを決める。まず、昼食を済ましてもらい、その後、暇を潰す意味で、実家に寄ったら、どうかと提案。彼女は、緊張するだろうけど、祖母にも顔を見てもらいたいし、家も見てもらいたいなって思って。それで、夕方に来て、面会して、彼女と兄と兄の彼女が食事して、彼女をホテルまで送るってことになった。兄には、とても、迷惑をかけてしまった。ごめんね。

(長くなりそうなので、明日に続きを書きます)

抗がん剤の副作用&友人への告知(2005年11月) 


2005年11月18日(金)

朝から、若干、不快感あり。たぶん、抗がん剤の副作用。まだ、吐き気とまでは行かないが、あまり食欲は無かった。

朝、家族と彼女に、メールで、昨日の深夜のことを言うと、とてもびっくりしてた。

一夜経って、肺のほうは、もうすっかりいい。ただ、肺の管は少し痛いし、邪魔。首にもカテーテルが入っているし、動きづらい。寝返りがとてもしにくい状況なのです。トイレに行くにも、ポンプと点滴台を持っていかなければならず、大変な状況。ベッドをぐるりと回るので一苦労、トイレのドアを開けるので、また一苦労。しかも、24時間点滴のため、トイレは頻繁に行くのです。これには参る。そこに、日勤の看護師が、気を使ってくれて、点滴台にポンプを固定してくれた。これで、かなり、動きやすくなって、とても助かった。ありがとう、Oさん。本当に助かりました。

夕方に母と弟が来た。他愛も無い話をする。この時間は、気が休まる時間。

夜、寝る前に、友人や会社の人に連絡をすることにした。正確な病名もわかり、治療が始まった、今が告知時期かな、と。メールの文章を考えるだけでも、一苦労。伝える人は、最小限の人と決めた。内容は、忘れてしまったが、発病がわかるまでの経緯から話して、今、C病院に入院していることを告げる内容だった。人それぞれ、反応は様々。中には、電話してくる友人も。皆驚き、励ましてくれた。

メールのやり取りで、寝たのは、十二時くらいになっていた。

明日は、彼女が関東から、お見舞いに来る。元気な姿を見せれるといいな。会えるのが楽しみだ。

そう言えば、彼女は、初めて、こっちに来る。初めて、家族に会うのです。彼女と家族は、共に緊張気味。その段取りで、頭を悩ました記憶がある。とりあえず、昼に、新幹線の駅に、母と兄と兄の彼女が迎えに行くことになった。実は、兄の彼女も、家族とは、初対面。いろんなところに気を使わないといけない大変な状況になっているのだ。明日は、彼女に会えるのはいいが、気を揉みそうだ。兄が唯一の頼り。頼むね、兄貴。

お宮参り 


2007年3月17日(土)

今日は、自分の住む町にある、神社へ、無事に帰ってきたことをご報告しに行ってきました。

この神社、すごく、雰囲気がいいんです。とても古くからある、由緒ある神社みたいです。とにかく、心が落ち着くんです。僕が、この町にやってきて3年になりますが、幾度となく通っています。と言っても、入社一年目は、半分は、研修で九州にいたし、二年目の途中で病気になり、実家のほうにいたので、まだ、一年くらいしか住んでいないのですが。でも、その一年間で、6回くらいは、行っているんです。二ヶ月に一回のペースですね。

何が好きかっていうのは、とても神聖な感じがするんです。心が洗われるような感じになれるのです。

と言う事で、仕事復帰して一ヶ月が経ち、落ち着いてきたところで、挨拶に行ってきたわけです。なぜ、すぐに行かなかったのって思われるかもしれませんが、この神社、山の中腹にある神社なんです。一番下から上ると、階段を七百段ちょっと上ることになるんです。もちろん、車で上のほうまで行けるのですが。どうしても、下から上りたくて。だから、すこし様子を見ていたのです。

階段七百段。正直、かなり辛かった。息切れ切れ。病気になる前でも辛かったのだから、今は、さらに疲れるのは当たり前です。でも、休み休みですが、上ることができて、自信になりました。しかも、上は眺めが良くて、最高でした。

お参りしたのは、もちろんですが、いろいろやってみました。

①人形(ひとがた)…人型の紙に、自分の住所、名前、生年月日を書き、息を吹きかけます。厄払いになるようです。

②玉石…願い事を一つ書きました。叶うと良いですね。

③ロウソク…病気平癒と書いてあるロウソクを買い、火を灯し、願いました。

④お守り…「勝守り」病気やこれから起こること勝ちたいという思いで。

⑤お札…病気平癒のお札です。

⑥おみくじ…吉でした。おみくじにはこう書いてありました。『このみくじにあう人は たちこめていた 雲間に 再び月の明るさが さしこむように 万事気短かに する事なく よくよく思慮すれば 神仏のご加護の下 幸せが訪れる』。とても、うれしい言葉でした。自分の不安が吹き飛ぶような気がしました。

こんなに盛り沢山にやってしまい、欲張りだって思われていないか心配ですが…まあ、そんな時も人にはあるものです、きっと。

突然ですが、僕は、神や仏など、超越した存在を信じるほうです。もちろん、霊的なものも。何かしらあると思うんですよね。だから、そういうものを馬鹿にしたりはしません。どこかで見てると思うんです。

今日は、自分の気に入っている神社に行けて大満足な一日でした。

写真も撮ったんですが、それは、アップしません。場所ばれると、会社もばれそうだし。

また、桜が咲くころに行こうかな、と考えています。

みなさんは、神仏信じていますか?お気に入りの神社とかってありますか?

僕は、この神社と、鎌倉のあるお寺と、京都のあるお寺かな。

CVカテーテル導入~(2005年11月) 


2005年11月17日(木)

夕方、CVカテーテルを導入することに。
邪魔になりにくい、鎖骨の下の静脈にカテーテルを入れることに。
極稀に、気胸などの症状がでることがある、とはさっき聞いたが、自分がなるとは、一つも思っていなかった。

若いM先生が処置をする。ベテランのS先生は、フォローに入っている。まずは、局所麻酔をする。その後、針を刺し、カテーテルを導入。すんなりと入っていく。やっぱり、自分は、血管が太いほうだし、だいじょうぶそうだな、と思った。もちろん、ものすごい緊張はしている。突如、カテーテルが進まなくなる。骨に当たっているような感触。角度を変えたり、少し抜いて、再度、挑戦したりするも、やはり入らない。雲行きが怪しい。業を煮やしたS先生が変わることになり、針を抜いた。

また、麻酔をして、S先生が挑戦。針は、すんなり入っていく。しかし、やはり、途中で止まる。S先生が少し、強引に、針を進める。激痛!痺れる。どうやら、神経に当たったらしい。もう一度、針を進める。またも激痛。手足が痺れて痛い。どうやら、俺の血管は、くねくね曲がっていて、骨の裏に回っていて、カテーテル導入は困難の様子。

S先生は、鎖骨下からの導入を諦めた。少し休憩。その間、看護士さんが優しかった記憶がある。

気を取り直して、頚の静脈にカテーテルを導入することに。局所麻酔をして、針を進める。するするとカテーテルが入っていく。さっきの苦労が嘘のように、あっという間に、カテーテル導入が終わった。最初から、頚にすれば良かったな、って思った。でも、やっぱり、首にあると邪魔に感じた。

処置後、レントゲンで胸の状態を確認して、問題なし。指から血中の酸素濃度を測るも、正常範囲で問題なかった。だけど、少し息苦しく感じるんだけど、気のせいなのだろうか。

家族が、再び、病室に入ってきて、少し会話。息苦しいことも言ったと思う。家族が帰って、夕食後に、抗がん剤治療開始。内容は、イダルビシン(三日間)とキロサイド(七日間)。初日の感想は、特に変化無いなって、感じ。

消灯前に、看護士さんが来たので、やっぱり息苦しいんだけど、って言ってみた。聴診器で胸の音を聴いてもらい、指から血中酸素濃度を測る。胸の音は、少し荒かったらしいが、血中酸素濃度は、正常範囲だったので、様子を見ることに。

とりあえず寝てみる。やっぱり苦しい。

おかしい。

苦しい。眠れるわけがない。

消灯から、どれくらい経ったのかは定かではないが、たぶん、十二時くらい。巡視に来た看護士にやっぱり苦しいと言う。指から血中酸素濃度を測る。若干低めの値。先生を呼ぶことになる。

少しして、S先生が登場。レントゲンを撮ることになった。

レントゲンの結果は、気胸だった。やっぱりか。わきの下の肋骨の隙間から、管を入れ、漏れている空気を抜くことに。局所麻酔をして、管導入。S先生の処置は、素早く、正確。大感謝。管をポンプと繋げ、ポンプで引くと、大量の空気と、若干の血液が抜ける。その途端、息苦しさがなくなっていった。本当に、死ぬかと思った。きっと、漏れた空気が肺を圧迫してたんだろう。処置が終わったのは、二時くらいだった。

緊張の糸が切れたように、その後は、眠れた。

今日一日は、本当に、大変な一日だった。

最悪の診断結果、カテーテル導入時の激痛、抗がん剤治療開始、気胸…

治療や処置で、いろんな合併症・副作用があるって言うけど、それは数%とか説明される。自分は、当てはまらないって思ってた。でも、自分が身を持って、その数%を体験するとは。でも、よく考えれば、白血病も、十万人に数人だな。この経験は、後々、役に立つ。治療をしていく上で、最悪の状況を考えて、治療に望めるようになった。いい経験だったんだと、今は思える。

長い長い2005年11月17日が終了。


今 


本当は、現代の日記は、当分、書くつもりは、ありませんでした。

でも、昨日の日記を書いていて、自分の病気を振り返ってみて、自分の病気の恐ろしさを再確認し、何か辛くなりました。

毎日、毎日、過去の日記を綴ってきたわけですが、過去を思い出し、その時の感情なんかが自分の頭を占拠し、眠れなくなったりするんです。

ブログを始めたきっかけは、過去のことを整理し、同じ病気の人や同じ病気を抱える家族の人に、こんな経験をした僕が元気になって生きていることを、励みにしてもらいたいという思いからでした。とりあえず、僕のことを知ってほしかったんだ、と思います。自己中ですねぇ…

まだ、自分には、過去を冷静に振り返るほど、余裕はなかったのでしょう。

これからは、たまに、息抜きとして、現代の日記を挟む事とします。

ブログの雰囲気は、あまり、壊したくなかったのですが、読んで下さっている方々、すみません。

今日は、純粋に、2007年3月15日の心境を書いてみました。

骨髄検査結果 


2005年11月17日(木)

入院生活も慣れた。朝、窓から見える景色を見るのが、一つの息抜きになっている。今日も、朝を無事に迎えれたって感じになる。

今日も、暇な一日だろうと踏んで、テレビ見たり、音楽聴いたり、小説・サッカー雑誌を読んだりして過ごしてた。

昼過ぎ、担当医のM先生が神妙な面持ちで、急いできたって感じで、病室に飛び込んでくる。

何?骨髄の検査結果が出たらしい。で、何で急いでるのって感じ。どうも悪い結果だったことが察しが付いた。家族とともに、また、病状の説明をしたいって言われた。しかも、急ぎでとのこと。

夕方、父(遅れてきた)、母、弟とで、病状の説明(兄は、不在だったと思われる)。検査結果は、はじめに告知されていた急性リンパ性白血病ではなく、急性骨髄性白血病のM0とのこと、しかもCD7陽性のもの。M0は予後不良、CD7陽性も予後不良。つまり、最悪の結果だったのだ。後で、転院先の病院で、詳しい病名を知ることになる。病名は、『myeloid/NK-cell precursor acute leukemia(骨髄/NK前駆細胞性白血病) 』。順天堂大学付属病院ホームページ(http://www.juntendo-hematology.org/description.html)に詳しい説明があるが、大変、珍しい白血病で、予後の不良のものであることがわかる。そして、恐ろしい病気だってことがよくわかる。再発しやすいとか、平均生存期間なんて気にしないようにしている。今を生きる。それでいいんです。あくまでもデータ。自分に当てはまるわけじゃない。そう信じたい。全く同じ病気を僕より一年も前に発症し、臍帯血移植して、今、元気にしている先輩がいるので、その人を目標に、今を生きています。この情報は知ったので、退院後なので、2005年11月17日の僕は、ただ、予後の不良の白血病で、移植が必要だっていう結果を、呆然と認識したってことだけでした。

今後の治療は、骨髄移植などの造血幹細胞移植を視野に入れた治療が必要になってくると言われ、早期に、HLA検査(白血病の型を調べる検査)を施行しておくらしい。確率的に、兄弟で25%で一致する。兄弟は、二人いるし、確率は、50%?期待してた。

そして、治療について、詳しい説明。一般的な、急性骨髄性白血病の治療を行うということ。そして、鎖骨下もしくは頚の静脈にカテーテルを留置するらしい。鎖骨下に入れる時に、気胸、血胸が、極稀にあるらしい。あんまり、悪いことは、あんまり考えないようにする。

とりあえず、今すぐに、カテーテルを入れ、今日から、治療開始だって。急展開。もっと、ゆっくりと治療を開始して欲しかった。

家族は、退室し、カテーテル導入へ。このあと、予期せぬ事態になるんです…

続く

担当看護士Tさん&坊主頭(2005年11月) 


2005年11月16日(水)

入院二日目。

何となく覚えているけど、すっきり起きれた。朝六時起床だったかな?

朝七時くらいに、検温、血圧測定。血液検査は、無かった気がする。
たぶん、微熱。

朝食後、朝九時に、今日の日勤のナースが挨拶に来る。その中に、担当の看護士のTさんがいた。第一印象は、元気な、面白そうな子。

その後、抗生物質の点滴するのに、やってきて話す。まだ、二年目で、俺よりも3歳も年下の子。背は低め。俺と、同い年の兄がいるらしく、俺が、お兄ちゃんって感じらしい。その兄と俺は、見た目・性格はかなり違うらしいが。
よくしゃべる子で、気分が紛れて、とても、好印象だった。
二年目って言っても、しっかりしている子で、なかなか頼もしい感じ。
今日、坊主にするって言ったら、○○さんなら、きっと似合いますよー、だって。そうかなー、っと思いつつ、初坊主に少し緊張。

エコーの検査をしに、病室を出る。大丈夫なのに、車椅子で移動。初車椅子は寒かった。風を切る感じで、寒かったのと、一年目の看護士Fさんは早く着いたほうがいいと思ったのか、結構スピードを出してたみたい。エコーは、問題なしだった。検査技師の人と雑談してたの覚えてる。雑談の内容は、エコー装置のことと、検査技師の息子さんが、大学の理系の三年生で、やっぱり大学院行ったほうがいいのか、だった(僕が理系の大学院卒だということを知って)。まだまだ、病気の自覚なしで、普通に話してたなー。
そうそう、びっくりなことに、この日から転院直前までの一ヶ月間、病室から出ていないのです。この時、そんなこと考えもしなかった。

昼食後に、病室に理髪師が来る。あんまり、病気のことわかってなくて、病室のドアを開けっ放しで、バリカンで坊主にしようとするもんだから、自分から、病気のことを言って、閉めてもらった。すると、エアコンの真下で作業となり、理髪師は汗びっしょり。悪いことしたなー。無事に坊主へ。さわり心地は良い。鏡で見たけど、何か兵隊さんみたい。不思議な感じ。
後で、看護士Tさんが来たけど、思ったとおり、似合ってるって。
携帯のカメラで写真撮って、家族と彼女に写メール。評判は上々だった。自分も満更じゃないかなって思ってきた。後で、髪の毛が抜けることはすっかり忘れてました。

夕方に来た家族とも普通に面会済ます。写メよりも、実際に坊主姿を見たほうが、印象は良かった様子。ウォークマンが欲しいって要望した記憶あり。

二日目も、特に、治療はなし(点滴のみ)。

特に問題は、無かったです。ここの看護士さんは、みんな話しやすい。いい感じです。

こんなのん気にしていいのかなってくらい平和でした。
ですが、明日から、治療が始まってしまうのです。
骨髄検査が出て、思いもよらない告知が。えっ、急性リンパ性白血病じゃないの?

続く

入院④(2005年11月) 


2005年11月15日(火)

夕方になり、家族は帰宅。

一人になる。まだ、信じられない。

治療は、骨髄の検査結果が出てかららしい。夕食後、微熱があるため、抗生物質の点滴をする。

テレビを見るも、落ち着かない感じ。しかも、テレビカードでテレビ見るのって遠慮しちゃった。

まだ、友人には、伝えてれてない。いつ伝えようか。今日はやめておく。はぁ~、伝えるタイミング難しいや。骨髄検査が終わってからにしようかな、と考える。

明日は、人生初の坊主頭。俺、似合うかなー。彼女は、似合うと言っているが、あんまり、想像できない。一生、坊主なんてしないつもりでいたんだけどな。

九時半(たぶん)消灯。やっぱり、病院の夜は早いんだなー、と実感。普通の生活してたら、ありえない。

寝る前に、彼女と電話する。これは、個室の利点だよね。個室でよかった。

何を話したか、は覚えていないが、少し、気持ちが落ち着いたのは覚えている。

これで、入院初日が終了。

元々、寝つきが悪いため、なかなか眠れなった。


ただ、この時、一つの事を思う。

「病気になったのが俺で良かった。家族や恋人や友達、会社の人じゃなくて、自分で良かった。自分ならば、がんばれる。」

この気持ちは、ずっと持っていた。今もそう思っている。自分で良かったのだ。

入院③(2005年11月) 


2005年11月15日(火)

夕方に、父・母・兄・自分・弟、主治医二人(S先生、M先生)、看護士一人と、病気のことについて話をする。

先生は、事前に、病状の説明を書類4枚に書いてくれていた。
たまに、口頭での話しのみの先生がいるんだけど、ここの病院の先生は、丁寧で、常に、書類に書いてくれて、わかりやすかったし、後で、見直すことができて良かった。

一枚目は、急性白血病のことについて。
これについては、B病院でも聞いていたので、驚きはなし。
だけど、説明は丁寧でした。

二枚目は、白血病による症状について、治療について。
これも、知っている内容でした。

三枚目は、化学療法の副作用について。
臓器障害→知っている内容もあるし、想定内。
感染症→白血球が少なくなるし、想定内。
血小板減少による出血→転んだり、ぶつけたりしないようにしないとな。
口内炎・下痢などの粘膜障害→うがいは、よくするぞ!
吐気・嘔吐→胃腸弱いし、ちょっと心配。
脱毛→やっぱり、抜けるんだなー。明日、坊主にするのかー。
不妊→「移植をすれば、移植の前処置でまず不妊になる。化学療法でも、なることもある。」自分としては、想定内ではあった。だが、これを聞いた母が泣いた。胸が痛む。「精子保存について、希望するのであれば、他の病院を紹介する。」と先生は言うう。しかし、実家のある県は、精子保存施設のある病院は、一つしかないらしい。他県(隣の市)にもあるらしい。しかし、白血球の少ない今の状況は、感染症にかかる可能性が高く、その病院に行くにもリスクはある、と。僕は、悩む。両親の孫に対する思いはわかるし、彼女もいるので、子供のことは考える。だが、あまり公に言いたくは無いが、彼女の生理は安定していなくて、子供については、もしかしたら、無理かと考えていた部分があった。なので、自分は子供は大好きだが、あまり多くを望まず、できればいいなってくらいに考えていたのだ。結局、そういう考えもあって、自分の将来が見えない今、将来生まれてくるかわからない自分の子供よりも、今の自分を治さなくてはと強く思った。だから、僕は、この時、精子保存はしなかった。両親には、本当に申し訳なく、思う。今でも、思っている。あの時の自分の選択は、正しかったのか、と考えたりもする。彼女は、理解してくれているので、助かっているのですが、両親はどう考えているのかな。

四枚目は、白血病の予後について。マルクの結果によってわかるが、白血病には、薬剤で治り難いものがあり、骨髄移植などの処置が必要になる場合もある、と。このときは、自分が予後の不良の白血病だとは、考えもしなかった。なぜなら、白血病であること自体が、最悪の診断であるのに、それよりも、悪いことは想像なんてできなかったのだ。

続く

入院②(2005年11月) 


初マルク!

主治医となったM先生(女性、20代(僕より二つ上))登場。印象は、天然なキャラ。おもしろい先生だった。白血病の詳しい型などを調べるために、骨髄穿刺をすることに。

どきどき。腰からやるのかと思ったら、胸骨からだって。まず、びっくり。上半身裸となり、消毒して、緑の布をかぶせられる。この布が目隠しとなり、詳しい作業は、見えない。見えないことから来る恐怖と安堵感。複雑な心境です。

看護婦さんが手を握ってくれる。少し、落ち着く。

先生が、まず、麻酔をします、と。少し、痛いけど、我慢してね、と。確かに、少し、痛い。針が、胸骨をなぞるように動く。あ~、痛い。麻酔があまり、効いてなかったらしく、もう一度、麻酔された記憶がある。そして、胸骨に針を刺す。胸にすごい圧迫感。僕の骨が硬いらしく、なかなか針が入らないみたい。何とか入って、それじゃあ、引きます、と。うぐっ!何か抜かれた。初のマルクは、気持ち悪くて、痛かった。後で、聞いた話によると、初めての時は、骨髄の中に、脂肪分なんかが入っていて、痛いんだって。なるほど。

何とか、無事に終了。何故だか、気分がハイになった。看護婦さんが傍にいてくれたのは、うれしかった。

夕方、家族が集まり、先生二人から、病気の説明と治療のことを話すことに。

続く

入院①(2005年11月) 


2005年11月15日(火)

起床は、七時くらいだったと思われる。
思ったよりも眠れた印象。

朝ご飯は、普通に食べ、少し、のんびり。
当時の携帯に、この日の朝の写真が残ってた。
寮から持って帰ってきた、観葉植物の「くわず芋」の写真だった。
2004年2月から育てている観葉植物。寮で枯れさせるのは、絶対に阻止したいと思って、慎重に持って帰ったのである。
今も、実家に置いているが、昨冬を何とか乗り切り(葉が枯れ結構やばかった)、僕が退院した頃には、大きく育った姿を見せてくれた。

九時くらいに病院へ。母、兄、弟と向かう。
診察前に、採血、レントゲン、心電図。

その後、診察。S先生(40代男)は、優しそうな印象。よかった。
すぐに、入院へ。

部屋は、個室でした。部屋に入る前に、手をアルコール消毒し入室。
部屋に入ってから、さらに、ミューズで手洗い。手洗いの仕方を看護婦さんに教えてもらった。

部屋の様子だが、一般的なトイレつき個室。ただ、一つ異なるのは、ベッドが、アイソレーター付きなこと(常駐)。初めて見た。
アイソレーターは、白血病患者の方は、よくご存知であろう、簡易無菌室状態を作るための、空気清浄機。頭のところから、きれいな空気が流れており、お見舞い客などが来た時は、HIGH(風力を強める)にしなければいけない。僕は、基本的に、このアイソレーターの中にいなければ、いけないらしい。トイレは、部屋の中にむき出しにあるわけじゃなく、別空間にあります(これ重要。なぜなら、一ヵ月後の転院時に、無菌室にむき出しのトイレがあり、衝撃を受けるのです)。
あと、七階で景色が良い!いい天気なら、○○橋が見えるのです。この病院、すぐに気に入っちゃいました。
しかも、入院初日に虹が部屋から見える。先行き不透明な自分に光明が差した気がした。

家族は、入院準備をするため、病室を出る。夕方に来るらしい。
この病院は、お見舞いの時間に制限があるらしく、一回二時間までらしい。あと、治療が始まると、家族以外はダメなんだって。厳しいね。

少し、一人の時間。のんびりできると思いきや、マルクの魔の手が迫っていた。

続く

帰省&家族との再会(2005年11月) 


新幹線で帰省へ。新幹線は、感染も怖く、初めて、グリーン席に乗る。もちろん、マスク着用。

京都駅で、簡単にリラックスできる本、目のよくなる本買う。何か、ためになる気がして。入院中に目を良くしようかと思ったけど、この本は全く活用せず。リラックス方法が載っている本は、結構、活躍した。その本に助けられたところも、大いにあり。本との出会いってあるものだな。あと、夕飯買った気がするけど、全然覚えていない。

新幹線の車中は、グリーン車で、人も少なく、ゆっくりと、自分の整理ができた。寮を出る前に、インターネットで白血病のこと少し調べ、プリントアウトしておいたので、その資料を読んだりして過ごす。

このとき、不安もあったが、きっと何とかなるさって、楽観視してた気がする。病気になった実感はゼロ。これから、起こる出来事を想像することはできなかった。

最寄の新幹線の駅まで、母が迎えに来てくれた。あれ、兄もいたっけ?この辺、かなり、記憶が曖昧だなー。記憶が曖昧であること=大きな不安があったことを、示しているに違いない。

実家に着いたのは、十時を過ぎ。

父、母、祖母、兄、弟。家族全員いた。

みんな、それぞれ、心配顔。意外と、僕が冷静で、逞しく思った様子だった。

病気のこと、治療のことなどを小一時間話す。

明日は、朝早くに、病院に行くことを確認し、それぞれ、寝床に。

彼女と電話で話ししたっけ?もう、泣かなかった。
昼に話せなかったことを話す。病気のことなど、自分の知る限りの知識を彼女に教えたと思う。


病院に行くのは怖かった。

どんな治療するんだろう。どんな先生がいるんだろう?部屋は相部屋?
わからないことだらけ。

まだ、信じられない。信じることができない。

本当に俺は、白血病?

俺は、また、この家に戻ってこれるの?

少し、眠れない時間を過ごすも、いつの間にか寝ていた。

2005年11月14日、長い、長い一日が終了。

告知④(2005年11月) 


一呼吸を終えて、駐車場の車中から、会社に電話。

数ヶ月前から上司となっていたOさんに、病気になったことを報告。
きっと、突然過ぎて、びっくりしただろうな。幸い、二年目のペーペーの自分は、大きなテーマを一人で抱えていることは無く、大きな引継ぎは無い。ただ、一緒のテーマで働いていた先輩には悪いことをしました。今、そのテーマは、立ち消え気味です。
簡単に、電話で引継ぎをし、問題があれば、連絡してもらうことに。
この告知は、あっさりとしたものでした。

病院から、寮へ。途中、銀行と郵便局へ。地方銀行なので、いつでも下ろせるように、貯金をほぼ全額、郵便局に移したのです。なかなか冷静に行動したものです。

寮に着くと、次は、寮監さんに告知。
寮監さんは、とても優しい方で、小一時間ほど話し、部屋と愛車のことを任せました。寮監さんは、その数ヵ月後に定年で辞められましたが、励ましも込めて、私がいるうちに戻っておいで、と言ってくださいました。ありごとうございます。

そう言えば、寮監さんと話をしているときに、一緒に仕事をしている先輩から電話がありました。出張先からで、今日の僕の作業の進捗を聞きたくて、電話してきたのですが、とても、びっくりしていました。

僕も含めて、誰もが、びっくりする一日だったことでしょう。

急いで、必要なものを荷物にまとめ、簡単に部屋の掃除(ゴミ、冷蔵庫のものの整理)。寮を駆け足に出ます。

一路、実家へ。

告知③(2005年11月) 


薬局から、駐車場の車に戻る途中に、彼女から、電話がある。
車に急いで戻り、彼女からの電話を受ける。

彼女には、A病院で、血液検査で異常があり、B病院で再検査することまでは、メールで言ってある状態だった。

彼女「どうだった?」
僕「………。実は、悪い病気だった」
彼女「…」
僕「急性リンパ性白血病らしい。すぐに、治療が必要で、実家にもどって、C病院で治療するよ。できれば、今日にでも、実家に戻る。」
彼女「それは、間違いないの?」
血液検査での状況を簡単に説明する(芽球だらけで、好中球がほどんどないことなど)。
僕「ごめんね…」
僕は、感極まり、涙を流す。彼女に告知をすることは、とても辛かった。

自分の先の将来が見えない。

一生、守っていく、と心に決めてたのに。

もう、彼女を守って上げれないかもしれない。

平凡でいい。彼女と、幸せな家庭を築く予定だった。

まさか、自分がこんな病気になるとは…

俺は、死ぬの?

死んだら、彼女はどうなる?


悔し泣きでした。


久しぶりの涙でした。


彼女も泣きました。


落ち着きを少し取り戻し、白血病は、医学の進歩により、以前に比べて、治りやすくなっているということを話す。

僕「俺、がんばるから、絶対に治してみせるから。待ってて。絶対に治すから」

(完全に思い出せず、内容は、不確かで空想に近いかもしれない)

彼女は、この時、どんな気持ちで、この告知を受けたんだろう。

最後は、お互い、この現実を受け止め、一緒に病気と闘おうという雰囲気になり、電話を切る。

電話を切ったときの僕は、唇を噛みしめ、病気と闘う、明確で、確固たる意思を、心に宿していた。

続く

告知②(2005年11月) 


O先生は、実家の近くの病院を探す、と言い、席を外す。きっと気を使ってくれたのだ、と思います。

午後一時過ぎ、実家に電話。

母が出る「どうしたの?」
僕は、ここ最近、体調が悪くて、土曜日に病院で血液検査したら、異常が見つかって、血液内科のある別の病院で診てもらったら、白血病だってわかったことを伝えた。心臓ばくばくでした。
それで、実家の近くの病院で治療することにしたから、今日か明日に帰ることを伝える。たまたま、休日だった父もいて、少し話をした。
このときの、母と父の心境は、どうだったんだろう。
とりあえず、後で、連絡するということで、電話を切った。
父は、自分なりに病院探しをしてくれるとのこと。

少し、診察室でボーっとしていると、少し年配の看護婦さんが、声をかけてくれ、励ましてくれる。感謝。

再び、O先生が登場。移植設備まで整っている病院は、大学病院しかないとのこと(今後、D病院)。そこは、実家の市の隣の隣の市くらいで。車で一時間くらいの距離。ちょっと遠いな、と感じた。そこに、父から、電話が。市内のC病院には、血液内科があり、無菌室が一室空いているとのこと。できるだけ実家から近い病院がいいと思って、C病院にすることに。O先生に紹介状を書いてもらう。

紹介状と血液サンプルと共に、マスク二枚を頂いた。できるだけ、マスクをするようにとのこと。O先生の気持ちに感謝しつつ、マスクをすることに少し抵抗を感じていた。

会計を済ませ、薬を受け取る。

仕事復帰したときは、また、ここで診てもらえるといいな、と感じた。

次は、彼女への告知と、会社への告知です…

病院の駐車場の車中での告知でした。

続く

告知①(2005年11月) 

B病院で、O先生待ち(B病院に行く前に、彼女にメールしてたなー、多分)

O先生登場。30代半ばくらいの若い、優しそうな男の先生だった。

まず、僕が、入院の準備も無く、軽装で着ていることにびっくりしてた。だって、A病院の先生、何も言ってないよ!O先生、困った顔。

そして、本題へ突入。
「A病院の血液検査のサンプルを見たところ、異常な形をしたリンパ球がいっぱいいる。白血病の疑いがあります。詳しいことは、今から、もう一度、血液検査をするので、その後にわかることになります」
こんな内容だった。

まず、血液検査へ。一時間で検査結果が出るとのこと。一時間、病院のソファーで待つ。時刻11時過ぎ。仕事中であろう、彼女に電話。電話は出なかった(後で聞くと、会議中だったらしい)。ソファーで待ってると、O先生が、少し、声かけてくれて、うれしかった。

そして、血液検査の結果が出る。

また、診察室へ。
「血液を見てきたけど、急性リンパ性白血病で99%間違いない」と。それから、白血病のことを、一から教えてもらった。先生は、告知するのが苦手ならしく、汗をかきながら、必死に説明してくれた。俺の血液の中の大部分が、芽球と呼ばれる白血病細胞が占め、好中球が少なくなっており、感染しやすい状態で、すぐに治療しないといけない状況だということ。白血球数4000くらいで、うち好中球2.9%(普通は、40~60%くらい)。白血病の仕組みを初めて知った。赤血球も正常値より少なく軽い貧血とのこと。だから、階段がきつかったのか、納得。

その後、僕のことについて質問がある(結婚はしているか、実家はどこか、など)。未婚で、一人暮らし(会社の寮)で、実家が離れているとわかる(ヒントは、本州最西端)と、ここで選択を迫られることに。
①ここで治療をする ②実家の近くの病院でする

僕の選択は、迷わず、②!
先生も、そのほうがいい、と。まだ、ぎりぎり好中球がいるから、今なら、帰れると言ってくれました。

[ここまで、さらっと書いているが、とても、不安で、でも、冷静な自分がいた。たぶん、まだ、信じられかったんだろう。今も、夢見たいな出来事と感じている]

この後、「家族に電話してもらえますか」という展開に。冷や汗…。どう言えば、いいんだろう

続く

歓喜と絶望②(2005年11月) 


2005年11月13日(日)
病院でもらった薬を飲んでも、熱は思うように下がらない。

2005年11月14日(月)
朝から、微熱。会社休む。土曜日に行ったA病院に、もう一度、行ってみようと決心。病院は、午後に予約し、午前はのんびりすることにした。朝ごはん食べて、少し、横になったくらい(朝九時くらい)に、病院から突然、電話が。「血液検査で異常が見つかったから、血液内科のある病院を紹介するので、すぐに、病院に来てください」(たぶん、こんな内容)とのこと。すぐに準備して、A病院へ。先生は、はっきりとしことは言わず。白血球の形が変な形をしている。普通は、丸いんだけど、楕円形とか言ってたかな。病気の全体像は全く掴めず、ただ、自分が悪い病気なのかも、と初めて大きな不安を感じた。紹介状をもらい、近くのB病院へ。血液内科は、火曜診察だが特別に診てくれるらしい。そして、告知に…

歓喜と絶望①(2005年11月) 

2005年11月5日 我が愛するサッカーチーム『JEF市原・千葉』が、ナビスコ杯決勝(VSガンバ大阪)に!
千葉の大学・大学院に通っていた私は、2000年から、JEFを見てきたが、ついに、大舞台がやってきました。
気合を入れて、前日(ちょっと曖昧)、関西から関東(彼女の住む)に上京。聖地・国立競技場は、試合前からヒートアップ。ゴール裏のポジションで、試合に酔いしれた。酔いしれたということは、もちろん、優勝!延長戦でも決まらず、PK戦に突入!GK立石がG大阪・遠藤のシュートを止め、最終キッカー・巻が決めたときは、最高でした涙出てきそうだった。応援してきたチームのJ発足後の初タイトルに立ち会えるなんて。
試合後に発売された、サッカー雑誌の、ゴール裏サポーターの群れの写真の中に、小さく、自分と彼女の姿が写ってて、いい記念になりました。いつまでも勝利の美酒に酔いしれたかった。でも、そうは行かないんです。

ここまでが歓喜…

その後、一時大人しくしていた微熱が出始め、会社の階段を上ると息切れする状態に。何かおかしい
歓喜の瞬間から一週間後の11月12日、朝から三十七度三分の熱。休日出勤を回避して、ついに、市内の内科病院へ。診断は、風邪じゃないか、とのこと。微熱が続いていたことなどを説明したためなのか、血液検査をしましょうということに。「結果は、月曜にお伝えします」。風邪薬と解熱剤をもらって、病院を後にした。

歓喜と絶望②に続く(長くなりそうだったので、今日は、ここまで、とします)

  1. レンタルHP
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