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G・W 


2007年4月27日(金)

明日から5月6日まで九連休♪♪

しばらく、ブログの更新はしませんので、悪しからず。

コメントは、見ようとは思ってます。

仕事復帰して以来の大型連休☆自宅療養中は、毎日が連休でしたが、仕事復帰してからは、そうは行かず。まとまった休みを待ち望んでいました。

九連休が、あっと言う間に終わらないことを祈りつつ、休暇を楽しんできます。
ではでは(^-^)/

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鈴木ヒロミツさんの最後の言葉 


2007年4月23日(月)

今日、ネットで、鈴木ヒロミツさんのエッセー「余命三カ月のラブレター」(幻冬舎、1300円)を紹介するニュースに、鈴木ヒロミツさんの、最後の言葉の抜粋があり、読んで感動しました。ここで、勝手ながら、紹介したいと思います。


「お別れ前に、一つだけ生意気を言わせてください。皆さん、これからの人生を、どうか楽しむために生きてください。人にはそれぞれ願いがあると思います。でも、目的が何であれ、笑って、笑って、腹の底から笑えるような人生を送って欲しい。僕はね、死を前にして、はっきり思ったんです。人生とは楽しいものだと。だから、どうか、楽しむために生きてください」


この言葉を読み、胸に何かが突き刺さるような気がしました。

みなさんは、どうですか?

僕も、大きな病気になり、僕も楽しい人生にしたいと強く思っています。

楽しむために生きましょう☆

転院②(2005年12月) 


2005年11月19日(月)

D病院の無菌室には、トイレとシャワーが部屋の中にある。だけど、ガラス張りの部屋なため、トイレ・シャワーは丸見え?有り得ないよーって、まず思った。だけど、看護師さんの説明で、シャッター(カーテン)が、ボタン操作で降りてくることがわかった。なるほどーって感じ。でも、古い施設なので、微妙に隙間ができたりするんです。だから、最初のうちは、トイレ中に、その隙間が気になって、気になって、しょうがなかった。今は、この無菌室は、血液内科では使っていない部屋です。新しく、血液内科の病棟に新しく無菌室を作ったのです。そのことからも、わかると思いますが、とても古く汚く感じる部屋でした。語弊があるといけませんので、弁解しておきますが、無菌室のレベルとしては、清潔度の高いもので、ベッドの枕側の壁前面に、アイソレーターが付いてる部屋です。

転院で、すぐに、以前の病院と違うと感じたのは、洗面所の周辺のグッズ(ハンドソープ、ペーパータオル)がないこと。実は、転院前のC病院は、全て、病院側が準備してくれていたんです。それが、D病院では、自費で用意してくれ、だって。こりゃあ、有り得ないと思っちゃった。今から思えば、前の病院が親切だったと思うのですけどね…C病院の習慣に慣れていたため、手拭きにタオルを使うのが汚く感じてしまい、無理を言って、入院中は、家族にペーパータオルを買い続けてもらってました。最初は、ペーパータオルを探すのに家族が一苦労してました。案外、ペーパータオルって見つからないようです。たまにですが、僕が一般の病棟や無菌室でペーパータオルを使っていると、患者や患者の家族が、僕にそのペーパータオルはどこで売っているのかって聞いてくることがありました。ペーパータオルの値段もバカにならないのは、わかりますが、これくらい、サービスしてくれてもいいのに。大学病院って、特にそういうサービス精神に欠けてる気がするんですよね。気を遣っている大学病院があったら、ごめんなさいm(_ _)m

そういうわけで、新たに入院生活で必要なものを買いに家族が出かけている間に、この病院での担当の先生がやってきます。ここの病院は、複数担当医制らしく、二人の先生が診てくれるようです。そのうちの一人の先生は、今日は、夜勤らしく、その場にはいませんでしたが、もう一人の担当医になる女性の先生と会いました。前の病院の先生との違いが大きく、とても、ショックを受けました。

その辺、次回に、詳しく、話したいと思います。

会社の健康診断(2007年4月) 


2007年4月19日(水)

先週の月曜日に、机の整理をしていた所、引き出しの奥に、僕が病気中に来た書類が入った封筒が見つかりました。その中に、過去の健康の診断の結果が入っていたんです。健康診断を受けたのは、2005年11月8日。病気が発覚する(2005年11月14日)直前です。

ドキドキしながら、結果の入った封筒を開けました。そこには、案の定の結果が待ち受けていたのです。

白血球数:2200
ヘモグロビン:9.7
血小板:10.6

他は異常なし

貧血と白血球数の項目で、精密検査・再検査を必要とする。
血小板の項目で、経過観察を必要とする。

となっていた。

やっぱり、異常が、会社の健康診断でも見つかっていたんです。

あの時、微熱で病院に行かずとも、この結果を受け、病院で精密検査をして、病気が発覚していたんでしょう。

ただ、この結果は、2005年11月27日に出ています。これは、少し遅いですね。病気が発覚した2005年11月14日で、白血球数は、4000でしたが、好中球は2.9%しかなく、実家に戻ることのできる、ぎりぎりの数値でした。もし、この会社の健康診断の検査結果を見て、病院に行ったとしたら、その時は、実家に帰って治療をすることもできなかったでしょう。

人生には、分かれ道が幾多もあると思うんですが、この選択(微熱で病院に行ったこと)は、間違っていなかったと思わせます。

僕の会社、健康診断は年二回あるのですが、血液検査は、年一回しかありません。毎回、血液検査があれば、半年早く、病気がわかったかもしれませんね。これも、人生の分かれ道?

ただ、白血病は、必ずしも、早期発見したから、いいとは言えないと思います。もちろん、遅く発見するよりも良いですが。早期発見しても、と言うのは、白血病には、いろいろなタイプがあるからです。

僕は、早期発見でなくて、良かったな、と思っています。半年早くわかっていたら、その半年間での思い出はなくなりますよね。その半年間には、いい思い出がありますから。

人生の分かれ道、27年の短い期間だけど、いろいろあるなー、と振り返りました。ただ、後ろを見てもダメですから、過去のことは過去のこと。前を向いて、現在(いま)を頑張っていきましょう

転院①(2005年12月) 


2005年12月19日(月)

転院の朝、天気は晴れ(確か)。

一昨日、初雪があるくらい冷え込んでいたから、その余波を引きずって、寒い一日みたいだ。

朝、採血をする。採血結果で、かなりの貧血だとわかって、急遽、移動前に、輸血をすることになった。この採血結果、実は、予想が付くものだった。ここ数日、息切れや立ちくらみがあったのだ。体の異変を先生に言っていたのに、早く気づいて欲しかった。移動前ということもあり、土日は採血しなかったのが、仇となりました。輸血は、救急車に乗り込む直前まで、かかった。最悪、輸血しながらの移動となるところだったので、ぎりぎり終わって良かったーって思ったことを思い出す。

移動するときに、看護師さんに見送ってもらったけど、寂しかったなー。担当の看護師のTさんはいなかったけど、昨日の夜(夜勤だった)、話せたからいいかな。

救急車は、予定の時間よりも、到着が遅れおり、控え室でとても寒い思いをした。

救急車には、歩いて、乗り込だ。救命士さんも、これには、びっくりしていた。かなり、重症患者だと思ったんだろうな(笑)白血球は尋常じゃないくらい低いから、重症患者だけど、まだ、筋力も落ちてなかったし、見た目は、そうは見えないはずだった。髪の毛は、帽子で隠れるしね。あとは、顔が青白いくらいかな。

救急車では、簡易なベッドで横になっていた。付き添いは、父とM先生。母は、伯父の車で追いかけることになっていた。初めて、救急車に乗った感想は、すごい揺れるです。横になってなかったら、酔ってたかも。もっと、揺れない構造にならないものかなー。誰か同じような経験した人いないですか?

一時間の移動は、あっという間だった。D大学は、迷路のような感じで、無菌室に辿りつくまで、どう行ったのか、わからなかった。無菌室は、ICUの隣にあった(当時の話。今は、血液内科の病棟に併設されてる)。無菌室に入るまでに、三度、手を洗う場所があり、入った病室は、想像以上の過酷なものだった。

トイレがベッドの横にある。とても不潔に感じ、どうやってトイレするんだって感じた。そして、病室自体も古く、C病院での病室との違いは歴然。しかも、この病院の病室は、外の景色が見えない。三階の病室なのだが、隣に建物があり、それが邪魔して、外が見えなくなってしまっているのだ。とても暗く感じる病室だった。C病院では、外の景色を見る時間が、心安らぐ瞬間だっただけに、とてもショックを受けた。

こんな病院で、俺は、治るのか?って大きく疑問を感じ、不安が募るばかりだった。

この無菌室には、一ヶ月ほど、いることになる。一ヶ月間は、とてもハードで、自分が病気であることを強く思い知らさた。現実に飲み込まれ、自分を見失いそうだった。


転院まで(2005年12月) 


2005年12月16日~18日

転院が決まり、気分は、不安でいっぱいな日々が続くが、この病院での残りの時間を充実した感じで過ごす。

土曜日の朝、部屋に出て、お風呂に入っていいと言われる。白血球は、400程度。好中球はもちろん、ほとんどない。だけど、ずっとお風呂に入っていなかった僕を気遣って、配慮してくれたみたい。

約一ヶ月ぶりの下界。と言っても、病院内だけど。病室の外の雰囲気とか、全く忘れてました。お風呂も、すごく気持ち良かった。湯船に浸かったら、汚い話になるが、垢がすごく浮いて、大変だった。でも、体がきれいになって、うれしかった。ただ、やっぱり、血球が低いことが怖くて、長風呂はできなかった。ちょっと残念。37度ちょっと熱があったし、貧血気味だったし、しょうがない、と納得したけど。

土曜の昼に、彼女がやってきた。本当は、その次の週(クリスマス)に来る予定だったけど、転院もあるし、一週間早めた。久しぶりに、顔を合わせて、会話できて良かった。転院時に着るコートが無いので、買ってもらうことに。一人で、男物の服を買いに行かせちゃって、緊張とかしただろうけど、がんばって買ってくれました。

土日に彼女がいてくれて、いつもとは、また違った時間の経過を辿り、そして、転院の日があっという間に来てしまった。

化学療法①後の骨髄検査結果(2005年12月) 


2005年12月15日(木)

相変わらず、37度~38度の熱が続く。白血球が少ない状況が続き、ついに、何かしらの感染症になったらしい。
朝夕の抗生剤の点滴が続いていた。

昼過ぎに(たぶん)、M先生がやってきて、骨髄検査の結果が出たことを知らされ、家族を呼んでほしいということ言われる。

悪い結果だというのは、それでわかった。

夕方、父・母・弟がやってくる。

S先生とM先生と看護師一人がいて、説明を受けた。


骨髄検査の結果、まだ、かなりの白血病細胞が残存していたらしい…


『非寛解』


僕の白血病細胞は、治療抵抗性(薬剤抵抗性)だった。

薬剤を変更して、再度、化学療法を行う必要がある。

あと一ヶ月は、この白血球が低いままの生活となる。

とてもリスキーな日々が続くことになり、大きな不安がよぎる。

寛解に入ると、早期に幹細胞移植が必要だろうとのこと。

骨髄バンクでの移植は、時間もかかるので、臍帯血移植や母(2ミスマッチ)からの骨髄移植が有力らしい。

今の病院では、移植ができないので、次の治療から、移植施設のあるD病院に移ったほうが望ましい。

ちょうど、無菌室が一室空いており、一時間くらいの移動も救急車を手配して移動するから、大丈夫だと言われた。

もちろん、もう一度、この病院で化学療法を行っても良いが、治療が上手くいかなかった場合を考えると、懸命な判断ではないようだ。

一応、患者である僕に、選択の権利を与えられ、先生の説明は終わった。

僕の気持ちは、転院で心は固まっていたが、その場では、返事はしなかった。

家族とも話し、転院で意見は一致。ただ、僕の希望で、移動(転院)は、来週がいいと言った。

どうしても、お世話になった、看護師にお礼が言いたかったのだ。

だから、明日の転院は、どうしても避けたかった。

夜に先生に、その旨を言い、了解を頂いた。

夜、担当の看護師のTさんが、転院準備のため、申し送り事項等を書くために、非番なのにやってきていた。少し、病室に来てくれて、話をする。お互い、残念だって感じになって、寂しく感じた。でも、お見舞いにみんなで行こうかとか話したのを覚えてる。まあ、いろいろ状況があったし、それは叶わなかったけど。

この病院は、とても居心地が良く、病気のことを忘れさせてくれる病院だった。いつの間にか、その空気に慣れ、転院がとても嫌だった。一から、医療スタッフと信頼関係を築くのが面倒にも感じ、無菌室と言う閉鎖された環境に身を移すことに抵抗を感じた。しかも、大学病院ということもあり、医療スタッフが冷たいんじゃないかと危惧した。

できることなら、この病院で治療を続け、治して、ここで退院したかった。

でも、もう、それは叶わない。

絶対に、元気になって、ここに戻ってくることを、心に強く誓う。

残り数日、しっかりと、感謝の気持ちを医療スタッフに伝えようと思った。

あと四日で転院だ。

化学療法後マルク(2005年12月) 


2005年12月9日(金)

M先生と、朝に、血球が上がらないことを話すも、もう少し様子を見ようと話す。

M先生は、笑顔で、自分に対しても励ますように、『大丈夫、きっと上がってくるよ』って言ってくれた。二歳上の先生で、ちょっと頼りない感じはあるけど、歳が近い分、患者と同じような目線で見てくれる感じで、和む感じです。ちょっと不思議なオーラを持っている天然な先生ですが…

M先生は、来週の月曜の様子を見て、骨髄穿刺(マルク)をしようと言っていたので、とりあえず、マルクから逃れたと一安心した。

だが、もう一人のS先生が、すぐに見たほうがいいと言ったらしく、急遽、マルクをすることに。それは、ないよーって感じだったけど、そんなことを言えるわけも無く、強制的にマルクだった。

M先生と検査技師(たぶん)&看護師の人が入ってきて、いつもの段取り。上半身裸になり、胸の消毒→布かける→局所麻酔(痛い)→針刺して抜く。相変わらず、局所麻酔は痛く、M先生の針は、なかなか入らず、胸にすごい圧迫感。そして、いざ抜くと、スカって感じで、初回のマルクのときのような、魂を抜かれたって感じが無い。えっ、これでいいのって感じ。どうやら、骨髄液が少ないらしい。骨髄液が足りるかどうか、検査技師にみてもらうが、やはり足りない様子。針は付けたままだったので、楽だったけど、もう一度、抜く。また、スカって感じ。何とか足りた様だった。検査技師がその場で、骨髄を見てみたが、寛解の兆候は見られなかった。あとで、詳しく見てみるのと、詳しい検査結果で判断するらしい。

マルクってなかなか慣れるものではないが、抜かれる感じがないと、そんなに苦ではない気がする。まあ、スカって感じのときは、まだ、血球の立ち上がりが無いときのサインであるのかも。

この日を境にってくらいに、38度程度の熱に悩まされるように。24時間の点滴も必要ないから、ということで、首からの静脈カテーテルが抜け、身軽になった。あまり、カテーテルを長く入れていると、そこから、菌が出てしまうんだって。抗生物質は、毎回、点滴針を指すこととなった。この頃は、血管も太く、そんなに苦ではない作業だった。点滴が2、3本あって、一時間半くらい拘束されて、トイレに行きたくても動けなくて大変だったのだが…

この病院、手に常駐の点滴ルートは取らなかったんです。病院によって方針って違いますよね。僕は、治療をした病院が二つなので、その事はよく感じました。病院の雰囲気や、先生や看護師の雰囲気も違う。どこも、いい部分と悪い部分があるものですよね。


日付が変わって 


2007年4月6日(金)

日付が変わり、臍帯血移植から一年が経ちました。

この一年は、いろいろな事があり、凝縮された一年でした。

移植前、一年後の自分を想像することなんてできなかった。

今、普通に生きていることが不思議でならない。

見た目は、普通の健康な人に見えるんでしょうね。

普通に暮らせるだけで感謝です。

今、生きているのは、家族、恋人、医療スタッフ、ドナーの赤ちゃん&お母さん、そして、僕より前に白血病などの血液疾患になっている諸先輩方のおかげです。

今の気持ちを忘れずに、しっかりと生を全うします。

白血病は、五年間再発しなければ、『完治』と言える病気です。

あと四年。

長い日々になるでしょうが、一日一日を大切に、前向きに頑張って行こうと思います。

明日もがんばるぞ

化学療法副作用(2005年12月) 


2005年12月XX日

白血球の数は、底の日々が続く。

しかし、感染症による高熱や粘膜症状は、ほとんどない。治療前に、先生から、言われてたのに、と拍子抜けである。いいことですが。熱は、たまに、38度くらいになるが、解熱剤と抗生物質の点滴で長引くものではない。粘膜症状のほうは、胃に少しあるかもって程度で、恐れていた口内炎、お尻のほうも全然、問題なし。いい感じです。

ですが、やはり、抜け毛が始まります。なかなか抜け毛がないので、俺の毛は、強いのかもしれないとか思っていた矢先、徐々に抜け毛が増えてきました。最初は、汚い話かもしれませんが、陰部の毛からでした。そして、数日後には、髪の毛という感じでした。抜け毛が始まると、気になって気になって仕方がなく、抜く習慣ができてしまいました。あと、シャワーを浴びることができないので(個室にシャワーがなく、白血球が低いので、個室から出れない)、毎日、蒸しタオルで体を拭くのですが、そのタオルで頭を擦ったりしていた事を思い出します。

化学療法開始から、3週間が過ぎ、もう少しで、白血球が上がってくるのかと思っていたのだが、一向に上がってこない。M先生は、M0だし、立ち上がりが遅いのかもっと言っているので、あまり気にせずに、日々を過ごす。この頃、TOYOTA CUP2005(現クラブワールドカップ)が行われており、夢中になっていたことを思い出します。サッカー好きの看護師さんのTさんと、よく病室でサッカー談義してたのが懐かしいなー。

白血球は上がって来ないものの、血小板が徐々に上がってくる気配が見られる(結局、化学療法一回目は、血小板の輸血はなしで済む)。このため、骨髄を調べてみることととなる。

外来 


2007年3月30日(金)

二ヶ月ぶりに、D病院に外来に行ってきました。

前日の夜に、関西から実家に戻り、当日は、朝をゆっくりと過ごして、十時過ぎに、車で病院に向かう。一時間ちょっとかけて、車を運転。家族が、いつもお見舞いで、車の運転、大変だっただろうな、と思いつつ、ドライブを楽しむ感じで通院です。今回は、血液検査しかしないし、特にどきどきはしない。月に一回、住んでる地域の病院に行ってますから。

結果は、全く、問題なし。次は、5月25日。骨髄検査(マルク)が入っています。どきどきだな。

移植から一年経っても、特に、いろんな検査をするわけじゃないらしい。これには拍子抜けでした。

4月6日で移植一周年になります。去年の今頃は、移植前処置の放射線照射中でした。感慨深いですね。あれから、一年。今から考えると、長い一年でした。次のマルクの結果がわかるまでは、一年を無事に過ごせたという感じがしないと思いますが、とりあえず、生きていることに感謝です。

診察後に、病棟に顔を出して、お世話になった看護士さんと話をしました。何回か入退院をしているので、担当の看護士さんが3人いるのですが、1人には会えて、話すことができて良かった。

そのままの勢いで、C病院(最初に入院していた病院)にも顔を出しに行っちゃいました。そこでの担当の看護士のTさんは、結婚・出産で、もういなくなってた。しかも、二日前に、子供が生まれてたらしい。去年の七月に会ったときは、何も言ってなかったので、とてもびっくりしました。Tさんが、母親になったなんて考えられないなー(笑)

とりあえず、元気な姿をお世話になった看護士さんに見せることができて、良かったです。

いつまでも、このまま元気でいられるといいなってシミジミ思っちゃいました。

  1. レンタルHP
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