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第一関門クリア(2007年5月) 


2007年5月30日(水)

本日、帰宅後に、骨髄検査の結果を聞くために、病院に電話しました。

まだ、染色体の結果は出ていませんが、顕微鏡による目視結果では、芽球は0%でした。

まずは、一安心です。染色体の結果は、問題があれば、病院から電話が来ることになっていますが、病院からの電話が来ないことを祈るのみです。

こう言った心配は、あと約四年続きます。本当に嫌な病気ですよね。

最近、仕事が忙しくなり、仕事のストレスを抱え始めていますが、贅沢な悩みですよね。もっと、ストレスを感じず、仕事に喜びを感じて、働きたいと思い、モチベーションの維持に努めるよう、考え方を変えようとしています。

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結膜炎と骨髄穿刺(2007年5月) 


2007年5月27日(日)

変なタイトルの日記ですが、10日ぶりの日記です。

最近の近況ですが、5月16日より、残業が一時間までの限定でできるようになり、少し忙しくなっています。仕事の量は膨大ですので、残業一時間でも足りないと感じていますが、一時間でもできるようになったことは喜ばしいことです。

さて、日記のタイトルの件についてです。お題の通り、二件について。

まず、①結膜炎です。

結膜炎になってしまいました。なったのは、5月23日(水)のことです。午前中は、体の調子も良く、普通に仕事をこなしていたのですが、午後三時くらいより、体がだるくなり、喉痛、吐き気・下痢と立て続けに襲い掛かって来て、定時まで何とか仕事をこなし、帰って、ダウン。少し休むと楽になって安堵して寝たのですが、その日の深夜、ふと目が覚めると、左目が目ヤニでびっしり!とりあえず、目ヤニを取って寝て、朝、起きたところ、やはり体もだるい。熱は無いが、異変を感じ、とりあえず、結膜炎にそのような症状があるのかネットで調べてみた。すると、ぴったりの症状が。

『咽頭〈いんとう〉結膜熱(プール熱)』
 アデノウイルス3型(ほかに7型など)の感染で起こります。夏場にプールの水を介して子どもに感染することがよくあるので、“プール熱”とも呼ばれています。ウイルスに感染してから発病まで5~7日の潜伏期間があります。
 病名からわかるように、のどの痛みや発熱を伴い、かぜのように全身がだるくなったり下痢をしたりします。発病から10日ほどでよくなってきます。

実は、先週末に、温泉に入っていたのです。こりゃあ、熱が出ては大変だし、会社は休み、眼科に行くと、やはり、結膜炎と診断されました。幸い、この結膜炎は、一般的な結膜炎よりは、治りが早いらしく、今は、症状は全くありません。でも、子供がかかるような病気ということで、免疫力は、まだまだ低いのだと実感しました。温泉に入る場合、入浴後、しっかりと、手洗いや嗽は必須ですね。良い経験となりました。

そんなこんなで、会社は休んだ5月24日でしたが、次の日の25日が、地元の病院の受診日だったので、実家に昼過ぎに帰りました。普段は、仕事後に慌しく移動するのですが、今回は、ゆっくりと準備してゆとりのある移動ができました。


次に②骨髄穿刺(マルク)です。

約四ヶ月ぶりでした。移植から一年が経過してから、初めてのマルクでした。久しぶりのマルクは、嫌でしたが、ベテランの先生がやってくれたこともあり、安心して望めました。結果は、また後日、電話で聞くことになっています。何事もないといいのですが、こればっかりは、結果が出ないとわかりません。結果が出るまでって、落ち着かないものです。

診察後、病棟に顔を出して、担当の看護師のKさんに久しぶりに会いました。退院してから会っていないので、七ヶ月以上ぶり。僕の髪の毛がふさふさになっていて、それが印象強かったみたいです。僕の今の髪の毛は、もう普通の髪の毛です。一月ぐらいまで、癖毛があったのですが、復職前に、坊主にして、伸びてきた髪の毛が、至って普通の髪の毛だったのです。目下、髪の毛を伸ばし中で、あと少しで、病気になる以前の長さぐらいになります。治療後の髪の毛も、人それぞれ違いがあるようですね。知らない人は、何のことだと思われるかもしれませんが、化学療法や放射線治療の副作用によって抜けた髪の毛は、また生えてくるのですが、往々にして、癖毛で生えてきます。縮毛矯正とかする人もいるようです。僕も、癖毛に悩まされたのですが、時が経つにつれて、治ってきました。確かに、若干、癖はあるのですが、少しパーマがかった感じで、お洒落にも見えるのでは。そんなこんなで、今は、見た目普通な青年に戻ったのです。

あと、僕が最初に入院していたC病院の時の主治医のM先生が、D病院(大学病院)に戻ってきていました。若い先生は、一年ごとにいろんな病院に転々としつつ、また、大学病院に戻ってくるのが常なようです。だから、M先生も元の病院に戻ってきたのです。相変わらずなテンションでしたが、当時を振り返り、(非寛解状態での)転院時は、どうなることかと思ったと言われていました。それほど、状況は最悪だったようです。二度目の化学療法で寛解となり、臍帯血移植がうまく言ったことは、奇跡的だとも。自分の病気が、それほど悪かったのか、と改めて感じ、今、生きていることを感謝しました。この感謝の気持ちは、日に日に薄れつつあったので、久しぶりに、当時を振り返れて、初心に戻れたことは大きいです。

さて、明日から、また、仕事。普通に働くことを喜びに感じ、初心に戻って働けそうです。

お騒がせ行動(2006年1月) 


2006年1月某日夜

ここ数日、病気のストレスと不眠に悩む日々が続く。

寝付けないし、眠りが浅くて、すぐに目が覚めるのだ。

多分、睡眠時間は、平均で3時間程度。

昼間も眠れないのだ。

そして、この日の夜、ぎりぎり保っていた自分が崩壊した。

夜、眠ろうとがんばっていたのだが、眠りにつく瞬間に、胸が苦しくなる。息苦しくなるのである。動悸もする感じ。最初は、それでも、眠れば、大丈夫だと思っていたが、どうも苦しい。そこで、夜勤の看護士さんに、症状を訴えてみる。胸の音を聞いてもらい、何も問題ないことを確認し、少し様子を見ることに。

だけど、改善は見られず、どうしようもないから、当直の先生を呼んでもらう。急遽、心電図を取り、心臓の動きをチェックする。でも、問題はない。だから、また様子を見ることに。

また、寝ようとがんばるんだけど、やっぱり苦しい。そこで、一時間おきに、ナースコールする状況が続く。だけど、当直の先生が問題ないと言うから、看護士もどうしようもなく、困り果てる。夜明けが近づき、もう一度、当直の先生を呼んだ。そこで、当直の先生は、あることに気づく。僕が、極度のストレスと不眠で、精神的に問題がある症状にあると、気づいたのだ。

予備の睡眠薬を出してもらい、僕はやっと、苦しみから逃れ、安眠できた。

ここの病院に来て以来、医療スタッフは、僕の睡眠ができていると思い込み、精神的に不安定な状況を見抜けなった。別に、僕は、隠したつもりはないのだが、医療スタッフとのコミュニケーション不足が確実にあった。

転院前の病院では、患者のフォローはしっかりしていた印象があったが、この病院は、患者自らが、症状を積極的に言わないといけない雰囲気で、患者のフォローと言う意味で少し欠けていた気もする。もちろん、医師や看護士に積極的に症状を言わなかった自分も悪いと思う。病院の雰囲気に慣れてくると、自分の症状をはっきり言うようになったんだけど、非寛解で転院してきた自分は、積極的な行動を取れなかった。

この日の行動によって、僕は、オオカミ少年になった。医療スタッフの要注意人物となったのです。

本当に申し訳ないと思います。

だけど、もっと気づいて欲しかったと言うのも本音ですけど。。。

翌日、精神科医との面談があり、眠れないことなどを話し、精神安定剤と睡眠薬を飲むことになった。精神安定剤は、リーゼ。睡眠薬はレンドルミンだった。

それから、精神状態は安定し、夜も眠れるようになり、医療スタッフとの距離も縮まり、スタッフとのコミュニケーションも取れるようになった。

予断となるが、この時、処方された睡眠薬のレンドルミンは、とても強いものです。当時の精神科医からは、その説明が無く、この事件から、約二ヵ月後の早朝、トイレに行こうとした時に、頭がふらっとなり、横に倒れる事件が起こった。幸い、頭は打たず、手に擦り傷を負うだけで済んだんだけど。。。後で睡眠薬が強いものだと聞いてびっくり!この睡眠薬の件も、僕が怒られた。何で、夜中にふらつく症状があることを言わなかったのか、ってね。いや、睡眠薬が強いと思ってなったし、ふらつくのが、睡眠薬の影響って知らなかったんだけどってのが僕の本音。どうも、この時の精神科医とは、馬が合わず、相互の意思疎通が欠けていた。精神科医との話ってプライベートに及ぶし、大部屋で話すのはどうかと思うんだけど、この先生は、平気で大部屋で話し、不快だった。僕が移植の事で悩んでいる時も、精神科医の先生は、相談に乗る風ではなかったのです。あの先生には、正直、もう診てもらいたくないですね。

4月から、別の精神科の先生に変わって、本当に、胸を撫で下ろしたのを思い出します。


今から思うと、夜中に息苦しくなった症状は、睡眠不足と過度のストレスだけが原因ではなく、骨髄抑制による貧血の症状も入っていたのでは、と思います。まあ、医療スタッフは、僕の虚言と異常行動だったと思ってそうですけどね。。。


年越し(2005年12月) 


2005年12月31日(土)

今回の化学療法も無事に終了。

後は、白血球が立ち上がってくるのを待つのみ。

今回の治療は、一回目の治療と比べて、かなりキツイ。

食欲が無くなり、吐き気が続く。幸い、口内炎はできていないが、食べれないのは辛い。

つい二ヶ月前まで、元気に生活していた自分は、二ヵ月後、この暗い無菌室(日の光が入らないので)で、年を越すなんて、考えていなかったと思う。

この頃より、不眠症状に苦しんでいた。

食べれないことのストレス。

一回目の治療がうまく行かなかったことによる、自分が治るのかという疑心・不安。

そして、無菌室の過酷な環境。

精神的に追い詰められ、眠ることが怖かった。

元々、寝つきが悪かった自分は、さらに寝つきの悪い男となっていた。

そして、この不眠状態が続いたことで、後に、問題行動を起こしてしまう。

化学療法二回目の開始(2005年12月) 


2005年12月22日(木)

マルクの結果、骨髄には、造血の兆候が見つからず、治療を開始することに。明日は、12月23日(金)は、祝日だし、来週まで待つと、年末休暇に病院も入るので、いろいろと不便。ということで、12月22日(木)から、治療開始となったのです。

ちょっとゆっくりできるかと思ってたので、少しショックだったが、治療を開始しない限り、造血は望めない。造血できなければ、駄目ですから。。。

治療内容は、前回とは異なったもの。キロサイドとノバントロン。

キロサイドは、前回の治療でも使ったが、ノバントロンは初めて。青い液体で見るからに毒薬って感じだった。前の薬よりも、副作用が強いらしい。前回の治療は、副作用も少なかったので、副作用が強いって言われてもピンと来なかった。

だが、治療開始の初日から、副作用が出る。

食欲がなくなってしまったのです。

その日の夕食は、皮肉なことにクリスマスメニュー(12月24・25日が土日であるため、前に繰り上げ?)。チキンとかケーキが出てたんだけど、ほとんど手を作られず。。。

その後も、食欲の低下は続き、熱も続く。

2005年、25歳のクリスマスは、人生で最悪のクリスマスとして記憶に残る。

転院③(2005年12月) 


2005年12月19日(月)

転院先のD病院は、複数担当医制。

僕の担当医は、二人。

一人は、A先生。研修医2年目の女の先生だった。眼鏡をかけた、少しキツイ印象をまず持ってしまう。弁解ですけど、そう感じたのは、D病院が大学病院で、他の病院よりも敷居が高いことから来る先入観があったのと、転院前のC病院のM先生が、ユニークで人情味のある女の先生だったことが理由です。もちろん、A先生が、患者と少し距離を置く感じの先生ではあったのですが…
家族も、A先生と初めて会ったときに、同様の印象を受けたようです。

もう一人の先生は、B先生(イニシャル的にはA先生ですが、もうイニシャル使うのは、止めます)。30代後半の男の優しそうな先生。B先生がいるから、さらにA先生がきつくなってしまった気はする。笑顔が優しくて、癒される先生でした。残念ながら、初日は会えませんでした。


一回目の治療がうまく行かなかったショックと環境の変化で、不安な毎日が待ち受けることとなります。血小板に増加傾向が見られるため、造血する可能性があり、少し様子を見て、治療を開始する予定だそうです。抗生物質の点滴が毎日あり、CT、マルクの予定が入りました。

トイレのあるこの無菌室の環境には慣れないし、微熱が続き、さらに、D病院の病院食がおいしくなくて、散々な転院初日…今日はこれで終わるのかと思いきや、夜勤で、担当の看護士のKさんがやってきました。担当の看護士さんが、どんな人なのかって言うことは、担当医と同様、とても重要なことです。C病院は、三歳年下の二年目のTさんでした。いつも、馬鹿話をして、Tさんとは、兄弟みたいな感じ(?)でした。まあ、僕が感じてたと言うよりも、Tさんがそう言っていたのですが…

D病院の担当看護士は、年齢が一つ下のKさん。血液内科歴四年目の頼りになる(?)看護士さんでした。まあ、最初は、お互い、様子伺いって感じで、すぐに仲良くはなれなかったけど、本当にいろいろ助けられました。前のC病院のTさんとは少しタイプが違って、眼鏡と黒髪で、真面目なイメージが最初(最初だけ?)はありました。共通点は、中学・高校と軟式テニスやってたことかな。その話で初日、少し盛り上がった気がする。今から考えても、入院中、Kさんには、愚痴こぼしまくってたと思う。たまにミスはしてたけど、それは、ご愛嬌(笑)とても、話しやすい看護士さんでした。

本当に担当看護士には、恵まれていました。もちろん、お世話になった先生にもです。

治療が上手くいかない時等、少し、先生や看護士に批判的な考えを持ったこともあります。

今から考えると、自分は何様なんだ、と思い、恥ずかしく感じます。医療スタッフがいてくれたことで、今の自分がいるんですから。

全く反省です。

25歳(当時)と言えど、まだまだ子供でした。


  1. レンタルHP
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